礼拝
渡部信
常盤台バプテスト教会 2022.3.27 主日礼拝 「キリストは道、真理、命」渡部信牧師 【ヨハネによる福音書 14章1~11節】(新共同訳 新約P.196-197)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ダニエル書 12章5~13節 司式者
祈祷 司式者
賛美 227番「カルバリの丘へと」1・2節
聖書 ヨハネによる福音書 14章1~11節
特別賛美 イエスがいなければ 奏楽者
宣教 「キリストは道、真理、命」 渡部信牧師
祈祷
賛美 483番「主と共に歩む」1・2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- コロナの感染拡大もこの2年間で収束するのではないかと思われていた昨今、ウクライナ侵攻が勃発し、次から次へと不安な世界へと引っ張られている毎日ですが、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。この困惑の中で、正しく言えば、私たちの信仰の生き方にもチャレンジを受けているのです。幸いなことは、世界の一般市民の中に平和を愛する多くの人々がいて、クリスチャンもいるでしょうし、他の宗教の方もいるでしょう。あのロシアもウクライナも昔から同じロシア正教会の仲間です。私たちが注意しなくてはならないことは、自分たちの信仰を絶対化して、他の教会や他の宗教を認めないという非寛容的な態度は、神様のみ旨に反して、悲劇を生み出すことを忘れてはなりません。
キリスト教の福音の中心は、イエス様の教えの「良きサマリヤ人」の中にありますように、宗教的な理由で軽蔑していたサマリヤ人が、その敵対しているユダヤ人を助けて愛したように、私たちと違いある者でも、同じ兄弟姉妹として愛し受け入れなさいということ。少しでも自分たちと違いがある者と壁を作ると、その壁が次第に高くなり偏見や誤解が生じてきます。そのためには交流や対話、交わりの関係を築いて、お互いの存在を認め合うことが必要でありましょう。そうでなければ、この地球上で世界平和は成り立ちません。
さて、礼拝の最初に、旧約聖書のダニエル書12章を読んで頂きました。この箇所はダニエルがバビロニア帝国の奴隷として連行され、会堂もなく礼拝もできない状態の中で、次々と起こる国家間の争いの行方を案じ、神に尋ねている個所です。「神様よ、これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」。ダニエルは歴史の最後は神の国が打ち立てられると信じていましたので、問うたのです。その返事は「一時期、二時期、そして半時期たつと、聖なる民の力がまったく打ち砕かれると、これらのことはすべて成就する」という返事でした。これはダニエルにとって全く理解できませんでした。何故なら、聖なる民が打ち砕かれてしまうなら、何の希望もありません。この一時期、二時期、半時期は合計すると3時期半です。7が神の完全数なので3時期半とは、サタンが猛威を振うことが許された期間という意味です。どのような戦争も、多くの悲劇をもたらすけれど決して長くは続かない、必ず最後に終わりがある。そこでダニエルは、「これらの終わりはどうなるのでしょうか」と再び尋ねました。その答えは、その内容は封じられているけれど、ただ「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る」と言う返事でした。
旧約聖書は常に新約聖書のイエス・キリストの救いの成就のための預言です。このダニエル書の預言は、私たちの信じるイエス・キリストによって救いの道が成就したのです。そして封じられた内容とは、神から遣わされた神の子が十字架の道を選び、全人類のためにご自身の命を捧げるという事実でした。
何百年経っても、何人の預言者が出ても、人々の罪はなくならない。逆に罪は巧妙に私たちの心の底に隠されてしまう。イエス様が神の道を説き、人々の病をいやし、虐げられている人を助けても、律法学者や祭司長たちは真理の道を認めない。反対に嫉妬心は強くなり、このイエスを死刑へと追いやりました。このイエスを殺せ、極悪人のバラバを釈放せよという叫び。これほどサタンが神の正義を打ち負かせた瞬間はないでしょう。イエス様は、この人間の狂気を、罪の性(さが)とも言うべき人類の罪を、ひとりで背負いながら、屠り場に屠られる子羊のように沈黙を守り、その重い十字架を引きずりながら、ゴルゴタの丘まで歩まれました。手足に釘を打たれ、十字架にはりつけされ、天の父なる神に叫びました。「神よ、彼らを赦してあげてください。彼らは自分たちが何をしているのか判らないでいるのです」。神に向かって執り成しの祈りを捧げました。自分たちは間違ったことをしていることを知らずにいる人々のために。イエス様を正しく理解していない私たちのために。イエス様は最後で決定的な、全人類の罪を贖うという形で自ら犠牲の供え物となってくださいました。死をもって完結した時、闇の中で光が負けたのでなく、光は闇に勝利したのです。肉体の死は終わりではなく罪を贖われたイエス様は復活の体として甦り、永遠の命、神の子として神の愛が啓示されたことによって救いの道が成就しました。
ヨハネ福音書14章は、まさにそのイエス様が、その救いの道を完成させるために弟子たちにお話になった箇所です。急にイエス様がわたしはどこかに行くと言い出したものですから、その意味が判らない。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くのだから」。「用意したなら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」。トマスは言いました。「どうして、その道を知ることができるでしょうか」。イエス様は答えられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」。フィリポが質問します。「その父とはどなたですか、その父を示してください」。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが判っていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」。なぜ、「私たちに御父をお示しくださいと言うのか」。・・・